HISTORY 小泉八雲について
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小泉八雲と奇才・荒川亀斎と
大橋館、3つのつながり -
作家 小泉八雲が松江で初めて滞在したのが「富田旅館」であり、当館はその富田旅館の流れも汲んでおります。小泉八雲と、小泉八雲と親交があった荒川亀斎、そして大橋館との繋がりについてご紹介いたします。
小泉八雲
豊かで自由な人生の旅
生い立ち
小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)は、1850年6月27日にギリシャ西部のレフカダ島に生を受けました。
父チャールズはアイルランド出身の軍医、母ローザはギリシャ・キシラ島の出身です。
当時、アイルランドは独立国ではなかった為、八雲はイギリス国籍を有していました。
2歳の時にアイルランドに移りますが父が西インドに赴任中の1854年、精神を病んだ母がギリシャへ帰国し、間もなく離婚が成立。
以後、八雲は両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナンに養育され、イギリスの神学校で厳格なカトリック教育を受けました。キリスト教教育に疑問を持った八雲は、多神教世界や森羅万象に精霊の宿りを認めるアニミズムの文化に傾倒するようになります。
16歳の時、遊戯中の事故で左目を失明してしまいます。
19歳の時、父母に代わって八雲を養育したサラ・ブレナンが破産したことから、単身、アメリカ・シンシナティに移民。それ以降生涯で一度も母国へ帰る事はありませんでした。
赤貧の生活を体験した後、ジャーナリストとして頭角を現し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博します。その後、ルイジアナ州ニューオーリンズ、カリブ海のフランス領マルティニーク島へ移り住み多彩な文化に触れる事でさらに旺盛に取材、執筆活動を続けて行きます。
その中で、ニューオーリンズ時代に万博で出会った日本文化、ニューヨークで読んだ英訳『古事記』などの影響で来日を決意し、1890年4月に日本の土を踏みます。
神話の国 出雲(松江)へ
同年8月には縁があり松江にある島根県尋常中学校(現島根県立松江北高等学校)島根尋常師範学校(現島根大学教育学部)に赴任する事となり英語教師に。
西田千太郎をはじめ様々な理解者がそばにいた事と、穏やかかつ移ろい豊かな宍道湖の水面に心を奪われた八雲。
当時の松江は牛乳配達があり、西洋料理の腕をふるうシェフがステーキを出前してくれ、薬屋でビールも調達出来たとの事。
そんな西洋的環境が異国の生活のストレスを緩和していたのでしょう。
1891年1月頃には後の伴侶となる小泉セツを紹介され、順調に日本(松江)での生活基盤を整えていきます。
再び人生の旅へ
そんな八雲でしたが松江の冬の厳しさに閉口し、1891年11月に熊本第五高等中学校へ転任。その後、神戸クロニクル社の勤務を経て、1896年9月から帝国大学(現東京大学)文科大学講師として英文学を講じます。
1903年には帝大を解雇され、後任を夏目漱石に譲り、さらに早稲田大学で教鞭を執ります。
この間、1896年に小泉セツと正式に結婚し、日本に帰化。三男一女に恵まれます。
著作家としては、翻訳・紀行文・再話文学のジャンルを中心に生涯で約30の著作を遺し、1904年9月26日心臓発作で54歳の生涯を閉じました。
奇才・荒川亀斎
荒川亀斎は1827(文政10)年4月25日、松江の大工の子として生まれました。
名を重之助、通り名として明生、重之輔と称し、雅号として石濤(濤石)、太白館、亀齢斎、亀幽斎、酔石、東雲などと号しました。
亀斎の雅号は66歳の時、後述するシカゴ万国博覧会での出品以降に使用しています。
亀斎が生まれた当時の雑賀横浜は職人町で、近くには鍋・釜・包丁等の鉄製品を作って専売した松江藩の直営企業「釜甑方」もあったと言われ、そういった環境で育った亀斎は、幼少より父の作業場で鑿や金槌をおもちゃ代わりに遊んでいたと言われます。
14歳で常教寺(松江市寺町)の鐘楼や売布神社拝殿に龍の彫刻を残します。
その後は工芸や書画のみならず国学や俳句、骨董にも造詣を深め、更には明治維新以後、西洋文化の輸入に刺激を受けて物理学に没頭、やがて松江藩病院や島根県庁などの機械器具類の製作や管理、操作なども委嘱され、1876(明治9)年には、島根県庁からの依頼で螺線仕掛けの学校用大そろばんを発明し、数百個製造します。
その多才ぶりから、現在では「島根のダ・ヴィンチ」や「松江の平賀源内」などとも称されています。
そして1877(明治10)年、第一回内国勧業博覧会(初代内務卿・大久保利通が主導して、国産品の開発・奨励を目指した当時国内最大規模の展覧会)に「紫檀製書棚」を出品、見事に賞牌を受賞します。この事をきっかけに亀斎の名は出雲地方に止まらず、全国的に知られる存在となりました。
そんな亀斎のキャリアハイとなる出来事は1893年のシカゴ万博で亀斎の「稲田姫像」(出雲大社蔵)の出展。
優等賞を獲得し、国際的な栄誉に欲しました。
1906(明治39)年、亀斎79歳で死去。亡骸は菩提寺である松江市新町の洞光寺に埋葬されました。
「小泉八雲と奇才・荒川亀斎と大橋館」
3つのつながり
小泉八雲と荒川亀斎
松江赴任当時の八雲は寺町を散策するのが好きでした。ある日八雲は境内にあるお地蔵様を見つけます。その慈愛に満ちた表情に見惚れた八雲は、すぐに寺男を呼び止め、作者が誰か尋ねると、その寺男が亀斎の名を明かしたと言います。八雲は、同僚であり親友だった西田千太郎の案内で亀斎の工房を訪ね、そこで美術論などを交わして両者は意気投合します。
八雲は著書(『知られぬ日本の面影』「英語教師の日記から」)の中で、「私はしかし、この松江にも、現に生きている老芸術家で、左甚五郎以上に不思議な猫を作る人があると、ひそかに信じている。その一人に荒川重之助という人がある。」と述べて、亀斎を激唱しています。
八雲は亀斎を世に紹介しようと、西田千太郎と共に、1893年のシカゴ万博への出品を勧め、取次に尽力します。そんな八雲の尽力があって、シカゴ万博での「稲田姫像」の優等賞獲得に繋がったわけです。
小泉八雲と大橋館
そんな八雲が松江で初めて滞在したのが「富田旅館」であり、「富田旅館」は後年当館へ事業継承をされており、その縁で当館は小泉八雲ゆかりの宿と銘打っております。
八雲自身の松江滞在は1年3か月と短いものでありましたがここで様々なエピソードを残しております。
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Episode 01
八雲の酔っ払い伝説
富田旅館滞在中、外出先で日本酒をたしなみすぎてしまい、人力車の車夫に宿の場所を伝えることができなくなり、松江市内を車夫に走り回らせました。
たまたま車夫が富田旅館の目の前を偶然通り、宿に気付いた八雲は地団太を踏んで、帰宅できた。との事です。 -
Episode 02
エッグス フーフー
当時の富田旅館の女将である富田ツネ氏が残した逸話から八雲はとあるものを毎朝所望されていたことが確認できています。
「エッグスフーフー」と言って所望していた好物とは「目玉焼き」です。
小泉八雲は、毎朝必ずエッグスフーフー(目玉焼き)を食していたそうです。 -
Episode 03
酒代の質草
お酒が大好きだった亀斎。
度々、当館にお越しになられてはお酒を嗜まれていた様です。(嗜むレベルだったかどうかは諸説あり)
当館にある亀斎の作品は実は酒代の質草。
まさしく「粋」なエピソードといえます。
協力:小泉八雲記念館